当店所蔵の保命酒徳利コレクション

当店に所蔵している保命酒徳利をホームページ上にて紹介いたします。

備前焼 岩谷焼 鞆焼 砥部焼 高取焼
三田焼 その他(福山木之庄焼・丹波立抗焼・薩摩焼等) (サイズ : 縦×横cm)

備前焼 保命酒徳利としては最も古く、又長い間にわたり使われました。江戸時代には伊部焼といわれ、初期の徳利は糸目のついた丸徳利が一般でしたが、一部を凹ませて臍徳利、そこに人形の飾りをつけた人形徳利が出てきました。その後、江戸時代後期には彫刻された角徳利(四角・六角)が代表的な保命酒徳利として多用されました。
特殊な形としては傘徳利(番傘をデザイン)、偏壺(ヘンコ)六角徳利、偏壺扇形徳利、狸徳利等があります。
彫刻の良い物は「献上徳利」と呼ばれ、保命酒を詰め、福山藩から幕府の要職、京都の朝廷、公卿の方々への贈答の品とされました。特殊なお酒として珍重されたことがうかがえます。
  備前焼 臍(へそ)徳利(人形徳利)
胴を指で1か所か3か所へこまし、布袋(ほてい)・大黒(だいこく)・恵比須(えびす)・寿老人(じゅろうじん)などの福の神の像をはりつけたもの。この像が徳利全体の形に対して大きなものほど古く、時代が下がるほど像も小さく形式的になってくる。保命酒徳利として、かなり初期の年代から使用している。後に備後の窯でもつくられた。
  
大きさ日本一
人形徳利
75×55
天保時代

青備前人形徳利
24×15
江戸末期

人形徳利
24×18
 

首長人形徳利
25×15
 
 
人形徳利
31.5×20
  

人形徳利
26×15.5
江戸中期

人形徳利
17.5×11.5
江戸初期

人形徳利
糸目丸1斗用
50×32
  備前焼 角(かく)徳利
天明時代(1781年~)以降多く用いられた。備前窯元の森庄八が天明元年(1781年)に初めて製作し、天保窯といわれる窯で多く生産されたといわれる。角形の徳利の4面に松竹梅や蘭などの絵や俳句などが彫りこんであって、なかには、六角のものや遍壺(へんこ)(厚みが平らな形)になったものがある。番傘に見立てた傘徳利といわれるものもある。備前焼らしからぬ幾何学模様が当時珍しい意匠で、人気をよんだが、現在、その良さには賛否のわかれる所である。
  
幾何学模様角徳利3升
38×17
江戸末期

松竹梅模様角徳利
37×16
江戸末期

菊模様角徳利
25.5×11
江戸末期 

金比羅宮銘入り
12.2×4.7
 
 

幾何学模様角徳利
19.8×5.8

松模様角徳利
16.4×5.7

竹模様角徳利
27.5×12.5

梅模様角徳利
27×10.8
 
明治28年第四回内国勧業博覧会受賞
ラベル付
17×6

立方体徳利
20×13
 

立方体徳利 竹
14×8.7
 
 
六角徳利
梅模様
28×11

六角徳利
松模様 1升
26.5 x 11.5

傘徳利 松模様
22×6.5
江戸末期

傘徳利 梅模様
20.5×6
江戸末期
  
扁壺六角徳利
松模様
10×3.3×6

扁壺六角徳利
竹模様
15.3×5×13.6

扁壺扇状徳利
保命酒刻入り
18×23.5

変形徳利
松模様
22×5×15
 
糸目丸徳利
25.5×21

首長献上徳利
23.5×16.6

丸徳利
9×6.1

丸徳利
8.5×6
 
瓢箪徳利
24.5×14.5
 江戸中期

狸徳利
14.5×8.5
明治以降

狸徳利
17×8
明治以降

狸徳利
19×9.5
明治以降
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岩谷焼 引野焼とも言われ、福山市の大門町の近くの窯。現在は廃窯となってます。
半磁器で上絵用白掛撫肩徳利で、上絵は門屋太一、河面佐平、平尾平八等が描き、書は上杉得蒼のものが多かったと言われる。
この徳利も「献上徳利」として使われ、赤色と緑色が鮮やかで美術的にも優れていると思われます。
朝鮮通信使の漢詩とか、頼 山陽の友、篠崎小竹の詩文の書かれているものも残っています。
  
献上徳利 箱付
23×10
江戸末期

献上徳利
朝鮮通信誌使の漢詩入り 銘:巖樓
22.5×11.5
天保時代
 
  
献上徳利
朝鮮通信誌使の漢詩入り 銘:滄州
22.5×11.5
天保時代

献上徳利
篠崎小竹の漢詩入り
21×11
江戸末期

献上徳利
四面図柄入り
27×13.5
江戸末期
  
献上徳利(大型)
朝鮮通信誌使漢詩入り25×13

岩谷焼
20×10
  

岩谷焼
24×9.5
 

岩谷焼 5合
22.5×10.3
江戸末期
  
岩谷焼 角徳利
17×8.5
 

岩谷焼 角徳利
23.5×10
江戸末期

岩谷焼 角徳利
15×7
 

岩谷焼 角徳利
23×10
天保時代
  
岩谷焼 角徳利
20.3×10.5
     
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鞆 焼 梅谷皿山焼(鞆焼)(福山市鞆町扇浜)慶応元年(1865年)開窯とされている。
中村家の自家用の窯である。もと洞山焼(広島県府中市)の職人で岩谷焼、木之庄焼を指導した新市町の陶工が棟梁となった。すべて陶器であるが白土で化粧がけされ色絵付けされたものや、青磁に似せて灰色の釉薬をかけたものなど各種各様の徳利を作った。
かずら通しとよばれる、かずら(草木の蔓(つる))を通す穴が左右に付けられている徳利はこの鞆焼にしかない特徴的な徳利である。
しかし開窯して2年後には明治維新を迎え、保命酒の石高も斬減するなかで明治12年には廃釜となった。しかし、ほそぼそと蛸壷や漁具、日用雑器などをつくり、また新興の保命酒屋用に徳利をつくるなどして昭和13年まで煙をあげていたそうである。現在も鞆の扇之浜に窯跡が残っている。
 
かずら通し瓢箪徳利
14.5×7.5

かずら通し瓢箪徳利
21×12.5

かずら通し瓢箪徳利
19×8.5

鞆焼
19×9
 
鞆焼
19×9

鞆焼
18.5×9

鞆焼 人形徳利
21.5×11.5

洋酒瓶をまねた徳利
30×8.2
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砥部焼 砥部(とべ)焼(愛媛県伊予郡砥部)
伊万里焼風の技巧をもつ。移入品を保命酒徳利にそのままつかったのか、無地の磁器に鞆で色絵付けしたのかは不明であるが色彩が豊かで、形も独特なものがある。天保時代に保命酒徳利として取り寄せたが、数は少ない。砥部には現在も窯元が多く、四国一の窯業地である。
 

砥部焼
19×7
  

砥部焼
13.5×7
明治時代  

砥部焼
22×9.5
  
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高取焼 高取焼(福岡県)
慶長5年(1600年)福岡藩主黒田長政が慶長の役の時李氏朝鮮よりつれて帰った陶工により開窯したといわれる。保命酒徳利としては、高取焼最後の時期で天保6年(1835年)から慶応4年(1868)まで用いられた。
高取焼特有の栗茶釉の上に首から肩にかけてどろりと白い釉薬が流れている。屋号の生の印が押してあることから生玉堂、中村家の特注でつくったものであることが分かる。
 
高取焼
26.5×18

高取焼
19×10

高取焼
23×14


高取焼
19.5×11
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三田焼 三田(さんだ)焼(兵庫県三田市三田)
寛政年間(1789~1801)豪商神田氏が陶工の内田忠兵衛の陶業を援助して窯を築いたのがはじまりとされる。青磁(釉薬(うわぐすり)に微量の鉄分を含み焼成によって美しい青緑色を呈する焼き物。中国殷の時代にはすでに登場しているが鈍い草色の焼き物であった、美しい色合いは、北宋時代に完成したといわれる)。大正時代に絶えた。
 
三田焼 青磁
24×8.5

三田焼 青磁
15.5×7

三田焼 青磁
24×9

三田焼 青磁
20×8
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その他 (丹波焼・木之庄焼・薩摩焼・その他)
 
丹波焼 へそ徳利
19×14

木之庄焼 へそ徳利
23×12.5

木之庄焼
14.5×6.5

薩摩焼の甕
43×32 
 
丸徳利
12×7.5

銘:備後鞆関入江支店
22.5×16

八勺徳利片耳付
12.5×5.5

瓢箪徳利
25.5×9
 
量り売り用の大徳利
47×33

量り売り用の大徳利
47×32

量り売り用の大徳利
42×30

量り売り用の大徳利
50×33
 
量り売り用の大徳利
55×32 

量り売り用の甕
35×34

量り売り用の甕
35×35
   
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