歴史・資料
保命酒の歴史
江戸時代の薬酒
文久3年(1863年)、大阪の中山芳山堂・播磨屋五兵衛発行の「買物獨案内」にも多くの薬酒とその値段がしるされています。
第三回内國勧業博覧会褒状
明治23年7月11日 総裁大勲位貞愛親王
明治28年の第4回、及び明治36年の第5回内国勧業博覧会にも出展し褒状を受けました。
内国勧業博覧会出展の記念写真(明治28年)
保命酒の創醸から江戸期の隆盛まで
保命酒の起源は江戸時代の初め、大坂(大阪)生玉神社(天王寺区)の近くで漢方医の子息であった中村吉兵衛(きちべえ)が鞆の浦で造られていたお酒と薬味で造ったことに始まります。 当時、瀬戸内海の港町 として全国から多くの人々や物資が交わっていた鞆の浦には醸造のノウハウが集約され醸造業が栄えておりました。そこに漢方の知識が加わって保命酒が誕生しました。
昔は船が交通の主要手段であり、瀬戸内海の中央で潮の流れのぶつかりあう鞆は北前船の寄港地として航路にとりくまれていました。海運業者や旅行者など船で移動する人々は潮が悪いときは鞆の港に船を停泊させ、船の修理をしたり宿を取ったりして時を過ごしました。様々な階級の人々が憩い、遊興にひたり、鞆に様々な文化や産業をもたらしました。保命酒が生まれ、発展したのもこの鞆という港町の地の利にほかなりません。
江戸時代、保命酒は福山藩の庇護を受け、備後の特産品として全国的に名が広がりました。日本外史の頼山陽もしばしば鞆を訪れ、このお酒を愛飲し、また、朝鮮通信使、三条実美の一行もこのお酒を愛でて詩文を残しています。江戸時代には他の酒よりも一段格上とされ、備前焼等高価な献上徳利に詰め口され、藩の御用酒として高貴な方々への贈答品として使われました。
幕末になって日米和親条約の締結後には、ペリー提督一行の接待に保命酒がふるまわれました。また、明治時代パリの国際万博に出展されたりと、国際色にも彩られた歴史を有します。
江戸期後半には保命酒の名声がたかまり、全国的に名の知られるお酒となりました。文化年間(1804年~)には類似品の製造販売をするものがあらわれました。京都、岡山、奈良、加賀、尾張大野など様々な地方にわたりました。それらは血縁者や元使用人らが始めたものですが、中村家は藩当局に願い出、専売制を推進しました。
これ以降、保命酒の製法は門外不出、一子相伝(一人の子だけに教える)として、類似品の再発を防いだといわれています。
明治以降の保命酒業界
江戸時代が終わり、廃藩置県によって中村家は藩の保護を失い、また同時に藩に貸し付けていたお金を損失しました。また1871年(明治4年)百姓一揆に際し、中村家は大損害を受けました。専売制が廃止となり、保命酒を造る業者が次々に現れはじめたため、中村家は郵船会社と契約して大阪―尾道航路をひらいたり、豚の飼育や清酒の醸造、また香川県に支店を配するなど多角経営に努めましたが、財力が弱り、明治36年には、完全廃業となってしまいました。
中村家の衰退と同時に、何軒かの保命酒屋が誕生しました。当店も入江豊三郎(香川県観音寺で海運業、清酒の醸造業などを営んでいた。鞆 大坂屋の血族)の移住により明治19年から保命酒の醸造をはじめました。入江家は香川県塩飽(しあく)諸島の広島出身(かつて塩飽水軍の人名(にんみょう)であった)であることから屋号を廣島屋としました。
それぞれの保命酒屋がもっとも販売にしのぎを削っていた時期は昭和初めごろであったと思われます。一店が客引き人を雇い鞆の観光案内、入浴サービスや商品の安売りなどお客の囲い込みを始めると、他店も同様のことをはじめました。客引き競争ともいえる状況に、ついに鞆商工会は商工省に調停依頼をしました。調停により和解、価格調整がなされ翌年には解決しました。
戦後は観光客や祇園宮(沼名前(ぬなくま)神社)参拝者も年々減少し、戦前より続いた輸出(ハワイ、フィリピン、台湾、ブラジルなど)も昭和40年中頃にはなくなりました。生産量は減り、保命酒店も、現在醸造元は4軒です。 当店は、現在5代目で、戦時中も含め毎年お米を使い造り続けて来たのは当店だけと言えるでしょう。
全国的にも薬酒の観光土産は珍しく、また、由緒ある保命酒の歴史を守るためにも、各保命酒店の発展が期待されるところです。
保命酒
保命酒の原料はもち米、麹(こうじ)、アルコール度40%の焼酎です。
できあがった甘口の原酒のなかに各店によって違うレシピの和漢の薬味を漬け込んで熟成させ製品になります。
現在では原酒からつくっている保命酒店は少なくなりましたが、当店は現在も、鞆町内にある酒蔵にて蒸米から麹作りまでほぼ手作業で、保命酒の醸造を続けています。
仕込み時期は毎年春先(4月)です。原酒の完成まで約8ヶ月かかります。時代の移り変わりとともに、創業時のように木製品を多用した製造は行われなくなっておりますが、醸造工程は明治時代の創業時から同一です。
保命酒の原酒づくりは途中の過程までは本みりんと同様です。
麹から出る酵素によって、もち米が糖化、液化され甘いお酒になります。同じ酒類ではありますが、清酒と違うところは原料がもち米であること、仕込み水のかわりに焼酎を使う所、またアルコールをつくるための酵母の発酵過程を含まない所でしょうか。
また仕込みの時期も違います(清酒は冬)。保命酒には数年ねかせたお酒とその年の新酒を混合しています。その後、飲み口をよくするため、さらに焼酎を調合し、薬味を漬け込む作業を行います。その後さらに熟成を促し製品となります。
当店では長年の原酒づくりで培った技術をもとに、本みりんも製造販売しております。
十六味保命酒醸造工程(画像は江戸時代の風景ですが、工程は現在も変わりません)
精米
洗米・浸漬
蒸煮
麹造り
仕込(もち米)
醪桶に入れ糖化熟成
搾り(上槽という)
薬草漬け
調整・利酒
代表的な13種類のハーブ